2010-2-26

東大日本史2010問題について

日本史2010/02/26 東大日本史  TEPO                    
 

 

第1:律令官人制と国司の時代的変容
 

8世紀、律令官人は官位相当制により官職に任じられ公的に給与を

受け、官位の上下により貴族が分化した。10世紀、国司は徴税請負

を行い受領と呼ばれ利権視されたため、人事権を持つ上級貴族に中

下級貴族が私財を提供して成功を行ったり、家司として私的関係を

結び受領に任命されたりした。清和源氏らは摂関家の侍から受領

に任じられ武士反乱を鎮圧し軍事貴族として勢力を拡大した。

 

※「公務員」である官僚が上下階層分化し、上級貴族に人事権が握られるとその家政機関を通じて中下級貴族が徴税請負の利権の大きい国司や、人気の京官を私的に競望するようになり私財を投じて猟官運動をした。こうした上下関係は院政期にも秩序混乱の原因になり、武士の台頭を生むのである。

 

 

 

第2:中世荘園年貢の地域性とその変化
A

九州では米中心だが、畿内では荏胡麻油、関東では布類など、宋銭

による貨幣経済の浸透により手工業品、商用作物が年貢となる特色。

 

※九州の二毛作、都市での貨幣経済の浸透、商品作物の流通、三斎市などを指摘しても良いが字数が厳しい問題。また綿は木綿ではないので注意。

B

13世紀以降に貨幣経済が浸透すると年貢の代銭納が普及した。

※「地方市場(三斎市)が発達した」でも可。字数が短か過ぎるので因果関係までは書かなくて良い。

 

C

15世紀、明銭の流入により貨幣経済が浸透し商品作物の需要が高

まり、畿内近隣の運送業が発達し市場需要が拡大されたため。

※商工業者の発達、三毛作・品種改良・技術による増産なども指摘して良い。



第3:近世:出羽国院内銀山の経済的意義
 

A

銀山経営では、流通利益が大きい畿内、北陸、中国地方など銀遣い

地域の商人が山師となり、精錬には産出量を増大できる灰吹法を使

用する石見国大森銀山などの職人の技術が必要とされたから。

 

B

米一期作で収穫量が少ないため、大坂の米市場で売却する運送費

の負担を減少させ、地域市場価格を統制して利益が出せる利点。

 

※藩専売による地域市場の価格統制により米の売却が行われると目減りしないで収入が求められる。

 

 

第4:井上馨の条約改正に対する民衆の思想と文化
 

政府の極端な欧化外交は、内地雑居問題やノルマントン号事件など、

民権運動から批判される三大事件建白運動を引き起こし、まず政府

批判として庶民からの欧化である平民主義が徳富蘇峰らの民友社ら

に提唱され、一方、芸術では欧米美術に対し岡倉天心らによる日本

美術復興の風潮を生んだ。また、朝鮮をめぐり清との関係が緊張す

ると、三宅雪嶺ら政教社は国粋主義を主張し国権論の台頭をみた。

 

 

2010-1-15

2010年日本史Bセンターは??

日本史Bの予想…まあ、やってみよう。

一問目:テーマ…地域史を含んだ環境問題?木曽檜、水質汚濁問題など公害も出るか?

二問目:縄文から古代(奈良時代)…建築や集落に関する問題?

三問目:中世=「境界の中世」…九州~琉球から日中関係?

四問目:寛政の改革から幕末までの出版史や規制?

五問目:近代アジア外交~韓国併合関連ではなかろうか。

六問目:占領時期から神武景気、鳩山一郎で決まり?

…当たったらいいんだが…とにかく気合入れて頑張ってほしい。

2010-1-14

教科書と日本史受験

日本史教科書の改定箇所一覧を眺めると、今年の入試問題、特に東大教授のクセが見え隠れする。これらの整理は東大日本史対策に重要な示唆を与えている。最も多くの東大教授・准教授が執筆を手掛けている山川出版「詳説日本史」を検討し問題点を考察したい。

原始:
1:縄文文化が成立する。この文化は約1万3000年前から…紀元前4世紀ころまでの期間にわたった。

※12000年から1000年延長された。これは遅すぎるが妥当であろう。

2:当時中国では日本人を「倭人」,その国を「倭国」とよんでいたが,7世紀末から8世紀初めにわが国がみずから「日本」と称し唐の歴史書でもはじめて「日本」という国号を採用した。

※「日本」国号の使用時期を明確にし、唐がこれを採用したことを記載。しかし、基本は朝貢しつつ冊封を受けないという外交に変わりはないが、より中国との上下関係を示す記述になる。

古代王権:
1:6世紀の朝鮮半島では高句麗の圧迫を受けた百済や新羅が勢力を南下させ伽耶の諸小国をあわせたため,伽耶諸国は562年までにつぎつぎに百済・新羅の支配下にはいった。そして伽耶諸国と結びつきのあったヤマト政権の半島での勢力は後退した。

※任那日本府・金官加羅などの日本書紀による表現は完全に削除し、朝鮮半島統一のパワーバランスの中で説明されている。


2:蘇我馬子は,はじめて本格的伽藍を持つ飛鳥寺(法興寺)を596年に完成した。百済からの技術者が参加して従来の掘立柱とは違い,礎石の上に柱を立てて屋根に瓦を葺く建築技法が用いられた。飛鳥寺の発掘調査では,塔の心礎から古墳の副葬品と同種の品が出土し,在来の信仰と習合する形で仏教が導入されたことが知られた。

※日本の信仰の多様性の淵源をみる表現に変わっている。仏教受容の根底にある問題は、豪族間の政治権力抗争と朝鮮半島からの外交的影響が少なくなかったと思われるため妥当な記載になっている。

3:難波から飛鳥へもどった斉明天皇(皇極天皇の重祚)のもとで倭は旧百済勢力による百済復興を支援するため…663年白村江の戦

※日本に660年以降に亡命した百済渡来人勢力による外交主導を示唆している。百済大寺の建立などとも関連する重要な問題点である。

4:律令・国司の編纂や銭貨(富本銭)の鋳造,中国の都城にならった藤原京の造営をはじめたが,その完成の前に(天武天皇が)亡くなった。

※天武・持統期の政策の連動性を明確に打ち出している。藤原京の建立は持統天皇からではなく、天武天皇からの継続した方針であると記載する。

5:国司関連の記述変更→今年は本命!

国司には中央の貴族が派遣され役所である国府(のちに国衙ともよばれる)を拠点に国内を統治した。

任国に赴任する国司の最上席者(ふつうは「守」)は…強欲な者が多かったので,郡司や有力農民(と対立した…988年の事例…)…一種の利権とみなされるようになった受領をはじめとする国司は成功や重任で任じられることが多くなった。受領以外の国司は,実務から排除されるようになり,赴任せずに,国司としての収入のみを受け取ること(遙任)もさかんになった。
  
受領は,有力農民(田堵)に…請け負わせ,租・調・庸・公出挙利稲の系譜を引く税である官物と,雑徭に由来し本来力役である臨時雑役を課すようになった。

(こうした請作が行われる土地には)請負人の名がつけられた。
こうして土地を基礎に受領が負名から徴税する体制ができていった。

その一方で,10世紀後半には国衙から臨時雑役などを免除されて一定の領域を開発する者が増え,11世紀に彼らは開発領主とよばれてみずからの開発地に対する支配権を強めていった。

※課税対象が土地に切り替わったことを詳しく説明している。


6:館侍とは受領の家子・郎党からなる受領直属の武士たちで,国侍とは地方の武士を国衙の軍事力として組織したものである。

※武士身分の分類を進めている。


7:大寺社に属したものは神人,天皇家に属したものは供御人とよばれた。
※非農業民にもスポットを当てている。


中世:
1:しかし鎌倉幕府以来の法秩序を重んじる直義を支持する勢力と尊氏の執事高師直を中心とする,武力による所領拡大を願う新興勢力との対立が…(観応の擾乱)
※新興勢力(高師直ら)と伝統的権力(足利直義ら)の対立という図式が明白になっている。


近世:
1:野犬が横行する殺伐とした状態は消えた。また,神道の影響から服忌令を出し,死や血を忌みきらう風潮をつくり出した。こうして戦国時代以来の武力によって相手を殺傷することで上昇をはかる価値観はかぶき者ともども完全に否定された。

※戦国遺風の排除などが生類憐みの令の根拠となると指摘。

2:銭貨は近世当初,中国銭である永楽銭がまだ大量に流通しており,永楽銭1貫文=金1両の交換比率に定めて混乱を防ぐにとどまった。しかし寛永期に江戸と近江坂本に銭座をつくり,寛永通宝を大量に鋳造し,銭貨を広く普及させた。そして17世紀中ごろまでに金・銀・銭の三貨は全国に普及し,商品流通の飛躍的な発展を支えた。

3:換算率はのち金1両=銭4貫文が銀60匁

4:「米公方」とよばれた吉宗は,米価の上昇によって武家の財政を安定させようとした。このため大坂の堂島米市場を公認した。さらに吉宗は,甘藷・さとうきび・櫨・朝鮮人参の栽培など,新しい産業を奨励し,また漢訳洋書の輸入制限をゆるめるなど実学を重視した。青木昆陽を登用して救慌用の甘藷の普及を実現させ,青木・野呂元丈に蘭語を習わせ,蘭学興隆の基礎をきずいた。

※経済史重視の表現になり、江戸時代理解が促進されることだろう。


5:1853(嘉永6)年4月に琉球国の那覇に寄港したアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーはそこを根拠地として,軍艦(「黒船」)4隻をひきいて6月に浦賀沖にあらわれ…

※アメリカと琉球の関係性を早くから指摘する表現になっている。アメリカの太平洋航路進出の意図や中国貿易・寄港地獲得の方針についても理解しやすい。

近現代:

1:1887(明治20)年に,板垣退助にかわって同じく高知の後藤象二郎が大同団結をとなえ,井上馨外相の条約改正交渉の失敗を機に三大事件建白運動がおこった。同年末に政府が保安条例を公布して多くの在京の民権派を東京から追放した後も,運動は東北地方を中心に継続し,1889(明治22)年の憲法発布によって政党再建にむかっていった。

※保安条例で弾圧後の東北地方での星亨の動きなどを指摘する。以前は大阪を中心に叙述されていた。豪農民権の動向を理解するには利便である。

2:折から1886(明治19)年には,横浜から神戸にむかうイギリスの貨物船が暴風雨にあって沈没した際に,日本人の航夫を見殺しにし,イギリス領事による海事審判で船長の過失が問われないという事件(ノルマントン号事件)がおこり,不平等条約に対する世論の反感を強めた。

※日本人の乗客だけでなく、「日本人の航夫を見殺し」という内容を追加・指摘している。

3:川上音二郎らが時事的な劇に民権思想を盛り込んだ壮士芝居は,日清戦争前後から人気がある通俗小説の劇化を加えて,新派劇とよばれた。

※オッペケぺー節など民権運動などの民衆運動から大衆演劇への展開を指摘する。

4:元老の西園寺公望の助言もあり,田中首相は当初,真相の公表と厳重処分を決意し,その旨を天皇に上奏した。しかし閣僚や陸軍から反対されたため…,

※1928年の満州某重大事件と田中内閣退陣に関わる説明が詳細になる。昭和天皇独白録や侍従武官などの日記などから復元された事実を反映した表現である。宮中勢力と内閣との政治相克と昭和天皇の「若さ」を示す近代政治における正しく「重大事件」である。

5:国際連合は,…安全保障理事会を設け,平和の破壊に対して,軍事行動の実施をふくむ強制措置発動を決定できる強大な権限を付与した。

※国際連盟とは相違点で指摘される国際連合の戦争抑止力の行使を記載する。現在の国連平和維持活動を理解する淵源になる。

6:ポツダム宣言は戦争犯罪人の「厳重なる処罰」を明記していたが、GHQは、侵略戦争を計画・実行して,「平和に対する罪」を犯したとして,戦前・戦中の多くの指導者を敗戦直後から逮捕した(A級戦犯)。

GHQの一部局として設置された国際検察局を中心に被告の選定が進められた結果,1946(昭和21)年4月まずは28人の容疑者が極東国際軍事裁判所に起訴された。

※極東国際軍事裁判に対する説明が詳細となり、日本の占領政治に対するGHQ、アメリカ中心の占領方針や関与がより明らかにされた。

7:国民生活の危機は,大衆運動を高揚させた。敗戦直後には,労働者たちが自主的に生産・業務を組織する生産管理闘争が活発になった。さらに全官公庁共同闘争委員会に結集した官公庁労働者を中心に,吉田内閣打倒…を期して基幹産業をまき込むゼネラル・ストライキへの突入が決定されたが,スト突入前日にGHQの指令で中止された。

8:(自衛隊の)海外派遣を開始した。2001年のアフガン戦争,2003年のイラク戦争に際しては,一連の特別措置法にもとづき自衛隊を派遣した。

9:(自衛隊の)海外派遣が可能になった。1993年にはモザンピーク,94年にはザイール(現,コンゴ民主共和国),96年にはゴラン高原,2002年には東ティモールに派遣されている。

※国際貢献の事例を列挙し、自衛隊の平和維持活動を理解させている。

日本史の教科書は歴史学の最先端を迅速に取りこまねばならないが、文部科学省の検定や研究の浅深によって記述に詳粗が生まれその記述が偏頗になりやすい。また特に「現代史」は、現在との時間的連動の深淵もあり、膨大な史料から恣意的に選択された叙述になりやすく、中間発表のような様相を呈し、古代史よりも外交・哲学・思想の影響を受けやすいものになっていることを懸念する。

「歴史は生物」である。歴史という名の劇場に登場する人間、彼らの社会を研究理解するのに暗記に拘泥することはむしろ不必要である。

しかし教科書用語における現代史の教科書記述が詳細になればなるほど、受験生の知識を要求する入試問題の跋扈を招くことは否めない。

そこで「歴史」の本質と逆行する、無味乾燥で無意味なゴロ暗記や年表式用語羅列といった「受験技術」も跳梁する。

そんなレベルの低い「作業」に日本史を大学受験が貶めているからこそ歴史学が軽佻浮薄の謗りを受け、実学から遠ざかってしまいつつあるのである。

無論、現代史の重要性は認識しているが、高校生の日本史理解をより深め、本来の歴史的思考を活性化させるために、大胆に時代を分割した教科とするべきである。今後は100年以前と以後という期間指標を設け、前近代史・現代史の分割独立叙述と科目・単位数の編成を一考する必要があるに違いない。

2009-11-9

秋の東大セミナー問題

1


次の資料を参考にして下記の問いに答えなさい。

 

1)弘仁六(816)年、嵯峨天皇は主に平安京内の治安維持にあたらせるために、左衛門府の尉である興世書主を宣旨で「検非違使」に任命した。

 

2)検非違使の役所は次第に整備され、長官である「別当」が設置された承和元(834)年のころに完成した。別当は参議・中納言で衛門督(えもんのかみ)を帯びる者が任命されその命令書である別当宣は勅命に準ずる権威を持った。

 

3)検非違使庁の実務を担う職員には、律令に精通した坂上氏・中原氏から主に任用され、また治安維持のために武士も任命された。平安末期になると別当の私宅に検非違使庁が置かれ、そこで庁務を執った。

 

4)検非違使は火災時の消防活動にも従事し、別当が蔵人頭を通じて天皇に報告する「焼亡の奏」という儀式が形成されていった。

 

5)凶悪犯の場合、刑期がすぎても検非違使庁は犯人を釈放せず、下部組織である「放免」と呼んで業務を分担した。また検非違使は市司や、賀茂川の洪水を防ぐための治水を行う「防鴨河使(ぼうかし)」などの職員を兼任する慣例があった。

 

6)南北朝期、北畠親房の『職原抄』によると「朝廷で此の職を設置して以来、衛府の仕事である追捕や…京職の行う訴訟など、併せて検非違使庁が行うようになった」と記している。

 

 

設問

 

A 平安初期、朝廷は律令に記載のない官職を直接任命しているが政治的にどういう意味を持つと考えられるか。2行以内で説明しなさい。

 

 

 

B 「検非違使庁」が設置されたことによって、律令制度によって設置されていた機関や行政にどのような影響が与えられたと考えられるか。4行以内で説明しなさい。

 




 

2


次の資料を参考にして下記の設問に解答しなさい。

 

鎌倉幕府の訴訟手続を解説した『沙汰未練書』には、「御家人とは、往昔以来、開発領主として、武家御下文を賜る人の事なり」と定義されていた。鎌倉幕府の執権であった北条泰時らが制定した『関東御成敗式目』には以下の通り、御家人に関する諸規定が見られる。

 

11条「夫の罪によって妻の財産が没収されるかどうかの判断について」

謀反・殺害ならびに山賊、海賊、夜討ち、強盗などの重罪の場合は夫の罪であっても妻の領地は没収される。しかし、夫が口論によって偶然に相手を傷つけたり、殺害してしまったような場合は妻の領地は没収されない。

 

10条「殺害や傷害などの罪科のこと」

父子間の争いであっても、酔った勢いでのけんかであっても、相手を殺してしまったら、それは殺人罪である。(略)財産は没収される。父が罪を犯した場合でも、子が無関係であるなら、子は無罪とする。傷害罪の時も同様である。子や孫、あるいは先祖の仇と言って、人を殺害した場合は、犯人の父や祖父がそのことを知らなくても同罪とする。

 

17条:「父子が立場を変えて同じ合戦に参加したときの処分について」

御家人の場合、父子が朝廷側、幕府側と分かれて戦ったとき、幕府側にいて戦功のあった者が父であれ子であれ恩賞が与えられる。反対に朝廷側であったときには父であれ子であれ罰せられる。西国の武士の場合、父子いずれかが朝廷側であった場合は互いに同意した者として父子共に罰せられる。しかし、父子が遠く離れていて互いに連絡がつかなかったような場合は、朝廷側についた者だけを罰する。

 

25条:「御家人の婿となった公家は武士としての働きを行うこと」

公家と言えども御家人としての働きを行うこと。父親が存命中の代行は許されていても、父親死後はその者が働かなくてはならないからである。それでも公家としての実家の権威を利用して怠る場合は所領を相続することを辞退すること。また武家の娘が幕府内で働くときに公家のしきたりを入れてはならず、そのような者は所領を治めてはならない。

 

設問

A 上記の資料から鎌倉幕府の御家人の家族と財産に関する規定の特徴について3行以内で説明せよ。

 

 

B 上記の資料から鎌倉幕府と京都政権(朝廷および院政)との関係について、13世紀の戦乱や土地支配の特徴にも触れながら4行以内で説明しなさい。

 

 

 

3

次の資料を読んで各設問に解答せよ。

 

江戸幕府の第8代将軍であった徳川吉宗は、清国商人を通じて交趾広南(現在のベトナム)に象を注文した。発注から2年後、享保13(1728) 6月、象を載せた清国船が長崎に来着した。ベトナム産のオスとメスの2頭の象は、船上から波止場へと厳重に誘導され、「唐人屋敷」で飼育されていたが、メスの象はまもなく死んだ。翌年3月、生き残ったオスの象は江戸へと運ばれた。九州と本州の間の関門海峡は船で渡り、途中、京都ではが霊元上皇と中御門天皇に拝謁している。この際、象が無位無官であるため資格がないという問題が起こり、急遽「広南従四位白象」との官位を与え宮中に参内させた。拝謁した象は前足を折って頭を下げる仕草をし、初めて象を見た天皇は
 

「時しあれば 人の国なるけだものも けふ九重に みるがうれしさ」と感銘を和歌に表している。
 

象が通る地域には、物音を立ててはいけない、象の通り道にある小石は取り除いておかねばならない、決められた量の餌を用意しておかねばならない、決められた構造の休憩小屋を作っておかねばならない等、細かく行政命令が出されていた。大名や民衆は、自分たちの土地で、将軍の象に変事が起こらないように、地域が連帯して準備にとりかかった。こうして、橋の掛からない大河川を筏で渡り、箱根の関所を越えて、長崎を出てから約2ヶ月後の5月25日、象と一行が江戸城の吉宗の元にたどり着いたのである。象が1日に食べるエサは、米8升、饅頭100個、みかん100個、藁120㎏、笹の葉90㎏、草120㎏、芭蕉の葉2本であったという。
 

 

設問

 

A 上記の資料から、江戸時代18世紀初期日本の交通の特徴について3行以内で説明せよ。

 

 

 

B 上記の資料から、18世紀初期の日本における幕藩体制と身分制社会に関して3行以内で説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4

次の資料を読んで各設問に解答せよ。

 

明治211888)年2月、黒田清隆内閣が組閣され、大隈重信が外務大臣に就任した。彼は「外国人裁判官の過半数任用」に関する事項を改善した改正案を各国に提示して条約改正交渉に着手した。大隈は条約改正に好意的な国から個別交渉を開始し、その結果、アメリカ・ドイツ・ロシアとの間で改正はおおむね合意に達していた。しかし、改正案では「外国人裁判官を大審院に限り任用」することを認めていたことが、イギリスの「ロンドン・タイムス」に掲載されると、翻訳されて日本の民権運動家に配られ厳しく批判されたが、外国人裁判官任用は、『大日本帝国憲法』に明らかに抵触していた

 

『大日本帝国憲法』

19条:日本臣民は法律命令の定むる所の資格に応じ均く文武官に任ぜられ及其の他の公務に就くことを得。

24条:日本臣民は法律の定めたる裁判官の裁判を受くるの権を奪はるることなし。

58条:裁判官は法律に定めたる資格を具うる者を以て之を任ず。

 

政府内でも、法制局長官の井上毅、逓信大臣の後藤象二郎らが「大隈改正案」批判を展開したが、首相の黒田清隆は大隈を支持し、大隈も必死の決意で条約改正に臨んでいたため、閣内不一致の政情混乱を招いた。さらに自由民権派や国粋主義者からの批判も根強く、18891018日、玄洋社の来島恒喜が、霞ヶ関の外務省前で大隈に爆弾を投げつけたため、大隈は片足を失ってしまった。負傷した大隈は黒田清隆首相と共に辞職し、条約改正交渉は暗礁に乗り上げた。

 

 

 

 

設問

 

A 明治政府の条約改正交渉で問題とされた不平等条項を具体的に2行以内で説明せよ。

 

 

B 上記の資料を参考にして大隈重信の条約改正の方針を2行以内で説明せよ。

 

 

C 上記の資料の傍線部分を参考にして、大隈改正案がなぜ批判の対象になったのかを3行以内で説明せよ。

 

 

2009-10-8

早稲田大学対策・日本史あれこれ1

早稲田大学法学部

対策
センター利用はまだしも、基本は実質8倍以上の難関である。史料問題・テーマ問題も最難関に相応しい、手応えのある出題になっており、目指すにはセンターレベルで90%以上得点出来ないともちろん芽は無い。自分が「日本史を得意」として偏差値を70以上にしているのであれば、恐らく同等かそれ以上の全国規模での志願者が8人いると考えねばならない。出題傾向では文学部と逆に江戸時代以降が圧倒的であり、頻度的には江戸・明治が最も聞かれる。前近代では平安・鎌倉が比較的多く、法律の延源に関する出題(律令制度・御成敗式目・分国法)なども見られるのが特徴である。 「日本史2100」、「そのまま出る日本史史料一問一答」、「攻める近現代史」などを使った学習と、「詳説日本史研究」「史料日本史」などの一般書・ハードカバー本などで近世・近現代の社会・経済を含めた学習を必要とする。出題レベルの近現代・戦後史料や取り扱うテーマは教科書学習では全く不足である。標準的な問題集を3回クリアしたら、慶應の経済・法の問題も含めて学習を広げていくと良い。このレベルの受験には運の存在は皆無である。

早稲田大学文学部

対策
私立文学部の最高峰であり、小説家や文筆を志す大学生が多く受験するため、国語の学力では差がつかないと考えて良い。また英語・国語の配点からも日本史での一発逆転は不可能である。センター利用では4.7倍で狙い目だが、一般は8.7倍と厳しい状況は変わらず。まずは英語・偏差値65、国語・偏差値70といった状況から日本史で偏差値70を取っても合格するとは言い切れない。出題範囲は江戸・明治を中心に原始時代から古代に厳しい出題があり、戦後も出ないわけではないが少なく、他学部に比較して大正・昭和の出題が抑えられているため現役に有利な出題となっている。とにかく知識的には「概論日本史」や「詳説日本史研究」レベルで前近代の重要語句を流れの中に押さえ、「日本史用語集」で単語の5W1Hを把握、ノートに整理する。過去問ノートを作成し反復するという作業が必要になる。

2009-9-15

受験指導と苦悩

幕末の授業で色々語った。

…吉田松陰や井伊直弼…ギリギリの時局判断が彼らを強く瞬惜なる光輝に満ち溢れさせている。生きる事とは歴史に責任を持たねばならないことであろう。彼等の生き方を通して我々も教訓を得ねばならぬ。

そして生きるための戦い…人間対人間の格闘は、明らかに戦闘の真の基礎である。我等、塾・予備校講師とは…今も防空壕に奥深く最前線に出ない将帥たちの組織下にあって全時代的な対人戦闘を強いられている下士官である。そしてこの近世紀社会においてさえも…、指揮下「生徒部隊」に銃剣・格闘・突撃のための訓練を行っているようなものである。

銃剣・格闘術は、ギベ-ルがすでに18世紀において「空論兵術家達の酔狂である」と断定済みの遺物であった。現実的には、貴重な「生徒部隊」を「機関銃によって壊滅的打撃を受けるために前進する訓練」を行ったに過ぎないようなものであった。

それは苦境に陥るだけではなく多くの部隊の自殺行為であり、端的に言えば「大量集中勝利理論の祟り」が、現実の大虐殺となって出現したのであると言い換えられよう。

「新兵器」が続出している時代に、それらの旧態依然理論を何等検討を加えずに受け入れた人々が統べる…彼ら将軍達こそ、より厳しく糾弾されるべきなのである。これでは結果は明らかだ。

経験から来る必然とは必敗の法則の反芻なのか。

問題集を沢山やれ…出ないところもか???
入試傾向と逸れた問題をか???
単語をただ覚えているだけでリスニングを疎かにしたらどうなるのか???
日本史の学習も同様である…。ひたすら年表を暗記していても明日は来ない。

勿論、戦術や戦略を新しくすることに恐怖もあろうが、生徒だけではなく日々変えねばならないことに畏怖する下士官、そして安全な卓戯に日々を送る将軍達に新兵器導入・開発を検討推進させること。

戦法を変えない限り、死体は累々、廉厚な下士官に対しその度に責任を取らせ虚弱な群体を穿り返すのみだ。

2009-8-28

困った大学の問題

とある中堅私立大学の近年の戦後の問題だが・・・きついね。諸政策なんて箇条書きにしただけでも100以上あるぜ!戦前期からの遺産なんてほとんど…+評価の遺産もあればもろマイナス遺産も書けば書くほどありまっせ。



国際的要因はもちろん東西冷戦体制で絞れるが・・・それ以外は大変な作業だ。もしくは何を書いても点をくれるってことかも?



この大学は…アメリカのニクソン大統領の大統領補佐官,後に国務長官の正式な人名を書け…という世界史選択者にも出来ない難問を一問目で出したからなあ。正解は「ヘンリー・キッシンジャー」



「キッシンジャー」だけでもすでに日本史の問題じゃやあないよ。



こういう問題が目に付くようになってきた…学校教育と大学受験つまり大学の欲する生徒の知識がずれているということだ。



この穴を埋めるのは,普通の受験指導では難しい…ましてや部活をやりながらの公立学校教員には酷だし,生徒も対応策がない。困ったことになってきているのは事実だ。


問題はここから…

http://ameblo.jp/tepotakano/entry-10330510961.html

2009-8-18

東大模試とパラノイア

今年も夏期の東大模試が終了した。

何を根拠にこれが出題されると予想しているのかが良くわからんな。この得点によって合格率が予想されるとは考えにくい。今年も単なる人数データ収集のためのイベントと化しているのは情けない現実である。

Sの模試=1問目:古代の天皇制…持統天皇の即位に関して…が出題された。ある意味古代史ではタブーの部分。藤原不比等らと渡来人百済派との駆け引きや奔放な持統天皇の政治権力、「日本書紀」記載における推古天皇との類似点など、問題点がありすぎて絞れないテーマだ。何を書いても推論が成り立ってしまい、正解は恐ろしく多様な別答が存在するものになるにちがいない。一応模範解答があるんだが・・・。

教科書や一般書には画一的な表現がしてあるが、歴史研究における史料論と当時の国際関係論を十分に吟味しないと解答を出せない問題である。採点できるのか?また誰がこれを正解と判断するのか?

2問目:源頼朝と御家人制。まず最初の史料「島津家文書」(東京大学史料編纂所)も疑惑の一つ、惟宗忠久宛て伊勢国波多御厨に関する「源頼朝袖判下文」だ。これには削り取った部分が存在し調査研究が現在も続けられているいわくつきのものだ。だから本来は出題されない…出来ないはずだ。出題者は編纂所の黒川先生が心血を注いだ「源頼朝文書の研究」すら読んでいないのか?問題内容は妥当かもしれないが・・・まあこの史料写真は出題されないだろうね。

4問目:(絶句・・・書きたくもない・・・)

なぜこうした事態が発生するのか、しかも年々酷くなるのか。

歴史研究者を予備校が経営上の理由から煙たがって採用しない。
→予備校では古い感覚で過去問のみから絞って予想する山師タイプが人気を博し高収入を独占する。彼らが小遣い稼ぎのために問題を作成する。これの繰り返しだ。

→問題作成者の頭脳が化石化(保守化)する。
→作成ソースが教科書や一般書や使えない「経験」に傾く。
→大学院レベルの研究史把握すら出来ない。
→模試で出題された問題が現実とかけ離れる。

しかし世の中は大学二極化が進みチープな難関大学受験マニュアル本が溢れ、日本史で言えば「歴史を分断」、なるべく最小限のテクニックが勝利を呼び込むなどの邪論が横行し、本質的解決策がおろそかにされる。得点のみが拠所になる。

→ただただ素人が見た目の安心のため、模試の偏差値万能主義・点数至上主義に拍車がかかる。

結果、合格判定が当てにならずA判定でも脱落し浪人する。しかし本質的実力がないため、次年もかすかな「幸運」を求めた頼りない受験になってしまう・・・。

このままでは「予備校業界は詐欺だ」と訴えられるだろう。

→予備校は軽々しく合格を口にしたチューターや講師の責任にして逃げ回るだろうが・・・そう簡単には・・・逃げられないだろう。

相田みつを「人間が先、点数は後・・・人間だもの・・・」

H橋で以前教鞭を取った拙の友人は、河合・SEGで物理を教えているが、元来、東大物理研で将来を嘱望された人物であった。しかし教授との確執や体制に馴染めず予備校業界に身を投じた。しかし現在でも学会には多くの学友が存在しノーベル賞学者とも親交がある最先端の知識保有者である。また合気道の達人でもあり、総合格闘技も支援する武道家としても知られる存在である。・・・ちょっとウチに来るのは無理かな・・・

また日本に数少ない「ポーランド史」研究で世界に知られる男もいる。現在、招聘しようかと思っているが・・・最先端の世界史研究者だ。大学で講義する傍ら、その精緻な思考力を、路頭に迷っている生徒に是非伝えて欲しい。

明治学院で講師をしている人物…英語学の先端研究者で、またアイルランド社会学で学位を持っている者もいる。

彼らの中で拙も多くを学び、他学問にも畏敬の念を今も注いでいる。

予備校業界も人材をコストと考え、企業経営のための「イエスマン探し」をするのは残念ながら理解は出来る。

しかしこのまま凋落が進めば最終的に大手に飲み込まれてしまうのは明白である。予備校組織に「都合のいい人材」は「バランス感覚?」の元に、束ねられ絡め取られ、彼らは保身のために新進気鋭の研究者の招聘を妨げる。若手を育成するという建前の前に・・・大学受験を愚弄し・・・「誰でもある程度の経験を積めば受験指導が出来る!」と謳い、研究者を塵芥の如く扱うようになる。

しかしそんなことだから・・・最終的に合格者の目減りを将来してしまうのである。

大学受験を指導する講師は、日本文化を担う次世代・大学生を育成・輩出するべきという使命を、たとえ組織や運命に抗うことになろうとも、努々、忘却は許されぬ。

ナチスによってフランス語教育が禁止され倒されようとも・・・
「VIVE LA FRANCE!」と黒板に書き、レジスタンス収容所で息を引き取る教師。(「最後の言葉」)

彼のように、背負わなければならない使命に生きねば、明日の生命はないのだと考える。
現実のしがない予備校講師の咆哮であり呻吟である。

2009-2-3

東大日本史09編・その2

第一問 

 

次の都城の地図と資料を参考にして各設問に答えなさい。

(地図省略)

(1)平城京は、中国の辺境に近い唐の長安を模倣して作られたというのが一般的な定説であったが、藤原京との密接な関係から現在は関連が疑われており、中原にある洛陽などをモデルとした日本独自の発展形態ではないかと考えられている。
 

2)平城京の東西の市は市司によって管轄されていたが、肆(いちくら)と呼ばれる常設店も多く存在し、絹肆や布肆などがみえ、それぞれ専門店であったと考えられる。
 

3)律令官人は、「季録」などが主要な給料であるが、それらはアシギヌ、綿、布といった現物を政府から支給されていたが、和同開珎が鋳造されると収入形態も変化した。
 

4)平城京遺跡の南六条付近に「上総」、九条付近には「備前」「武蔵」、七条には「伊豆」という地方国名に由来する地名が周辺に残っている。

 

5)平城京は大河川から離れているため、大量輸送できる大きな船が使えず、物資を効率的に運ぶことが困難であり、人口10万人を抱えて、常に水不足であった。
 

設問

 

A:上の資料を参考にして、平城京の周囲に城壁が構築されなかった理由を2行以内で説明せよ。

 

 

 

B:上の資料を参考にして、平城京における流通の特色について、律令税制と関連させながら4行以内で説明せよ。

 

 

 

C:平城京が長岡京に移転されるに至った理由を2行以内で説明せよ。

 

 

 

第二問 

 

日本中世には「海賊衆」・「警固衆」など、地域権力に付属して海上業務に従事した集団が存在した。それらに関する次の文章を読んで各設問に答えなさい。

 

1室町幕府は海賊の被害を防御する目的で、海辺の守護らに警固を命じた。備後国守護山名氏は、領国内の因島に根拠を置いた村上氏、また豊後国の守護大友氏は国東半島の海辺の土豪に、貿易船などの海上警備を命じている。
 

2)安芸国守護武田氏は海上の権益について、明応41495)年、「警固衆」の白井氏に「安芸国仁保島海上諸公事」として安堵し、彼らと主従関係を結んだ。
 

3戦国大名の毛利氏は天文10年代(154150)から安芸国佐東郡に水軍を動員するための給地である「警固料」「船方給」を設定して自己の権力と直結した水軍を育成し、周防国大島郡の屋代島に水軍基地を増設し、大友・大内水軍に対抗した。
 

4)イエズス会士フロイスは、天正14(1586)年に堺から豊後国まで航海した途中、
「…その島には日本最大の海賊が住んでおり、そこに大きい城を構え、多数の部下や領地や船舶を有し、それらの船は絶えず獲物を襲っていた。この海賊は能島殿といい、強大な勢力を有していたので、他国の沿岸や海辺の人々は、彼によって破壊されることを恐れるあまり、毎年、貢物を献上していた」と記録している。
(フロイス『日本史』)※「能島殿」=村上水軍惣領・村上武吉のこと。

 

5)相模国小田原の後北条氏は永禄年間(155870)に、紀伊国の海賊衆の梶原氏を招き水軍を編成し、天正年間(157392)になると、梶原氏は乗組衆などを仕立てるための土地を後北条氏から給与されている。
 

6)天正161588)年、豊臣秀吉の海賊禁止令によって「海賊衆」の利権が否定され、豊臣政権による海上支配、統制が進んだ。

 

7)天正18(1590)年、豊臣秀吉は瀬戸内海の塩飽島で1250石の領有を「船方衆」に認め、後北条氏討伐に際し、兵糧米を大坂から小田原に運ばせている。

 

(8)豊臣秀吉は、文禄元(1592)年に文禄の役(=壬辰倭乱)、慶長2(1597)年に慶長の役(=丁酉再乱)をおこした。村上水軍の来島通総は、鳴梁の海戦で朝鮮水軍の李舜臣軍によって討たれている。
 

 

 

 

 

設問

 

A:室町政権による「海賊衆」の編成とその理由について2行以内で説明しなさい。

 

 

 

B:戦国時代の「海賊衆」について、上記の資料を参考にして2行以内で説明しなさい。

 

 

 

C:豊臣秀吉の「海賊禁止令」によって「海賊衆」はどのように再編成され、その後どのように活動したかを、上記の資料を参考にして4行以内で説明せよ。

 

 

 

 

第三問

 

江戸初期から中期社会に関する文章と史料を読んで、各設問に解答しなさい。

 

13代将軍徳川家光のあとを継いだのが子の家綱であるが、わずか10歳であった。この幕政が不安定な時期に、1651年の由井正雪の乱(慶安の変)がおこった。これは改易された大名の家臣たちが牢人となり、幕藩体制に不満を示したものである。

 

2)4代将軍徳川家綱の政策は、戦国時代につちかわれた武士社会における常識、つまり「戦国遺風」の排除を目標とし、「傾奇者(かぶきもの)」の旗本奴らは幕府に処罰された。

 

3)(史料)

 口上の覚
殉死は古より不義無益の事なりといましめおくといえども、仰せ出だされこれ無きゆえ、近年追腹の者あまりにこれあり。向後、左様の存念、これあるべき者には、常々その主人より殉死つかまつらざる様にかたく申し含むべし。もし以来これあるにおいては、亡主不覚悟越度たるべし。跡目の息も抑留せしめざる儀、不届思し召さるべきものなり。

(『徳川禁令考』)


4)寛文4(1664)年5月、米沢藩30万石の当主・上杉綱勝が27歳で病死した。

彼には跡継がいなかったため、急遽、綱勝の妹・富子と高家肝煎:吉良義央との間に生まれた吉良景倫を養子とする家督相続が願い出された。幕府は30万石のうち半分の15万石の相続を認め、上杉家は断絶をまぬがれ、景倫は上杉綱憲となった。
 

5)幕府の政策が浸透し各地にも好学の藩主が現れ、彼らは学者を自藩に招き、藩士対象の藩学を設立した。「姫路宰相」と言われた池田光政は岡山31万石の藩主であり、50年間、藩政を指導した。彼は「上様(将軍)は日本国中の人民を天より預かりなされ候。国主(藩主)は一国の人民を上様より預かりたてまつる。家老と士とはその君を助けてその民を安くせんことをはかる者なり」と説き、家臣に対して、主君に対する「乱世の忠」ではなく、民百姓の安全を守る「無事の忠」へ態度を変えるべきであると説いた。光政が設立した藩校や、郷学は著名である。

 

65代将軍徳川綱吉は「生まれながらの将軍」ではなかったために、極端なまでに家綱の政治方針の継承・推進を行った。「武家諸法度」「天和令」(1683年)では、「文武忠孝を励し礼儀を正すべきのこと」と示し、武道よりも忠孝が大切であると明示した。

 

 

 

 

 

設問

 

A:江戸時代初期の「戦国遺風」について、資料を参照しながら具体例をあげて2行以内で説明しなさい。

 

 

 

B:こうした政治体制に対応した大名の事績に関して、資料を参考にして3行以内で具体的に説明しなさい。

 

 

 

C:この時期に奨励された学問を一つ指摘し、上記の資料を参考にして当時の武士の価値観の変化について2行以内で説明せよ。

 

 

 

第四問

 

財閥史に関連する次の文章を読み、下記の設問に答えなさい。

 

1)土佐藩は坂本龍馬が暗殺されたことで解散した海援隊の後身である九十九商会の監督を1870年に岩崎弥太郎に任せたが、廃藩置県後に彼の個人事業となり、1873に「三菱商会」と改称し事業を展開した。また西南戦争で政府が支払った戦費は4,150万円といわれるが、そのうち1,500万円が三菱の利益であった。

 

 

2)中核となる「三菱社」は、1881年に買収した高島炭鉱と、1887年の長崎造船所の払下と、1885年に第百十九国立銀行の買収による銀行業務への本格展開をし、1885年に共同運輸と郵便汽船三菱会社の対等合併で「日本郵船会社」を設立、そして1887年に東京倉庫(後の三菱倉庫)も設立した。
 

 

31900年代から1920年代初めにかけて、三井・三菱・住友などの財閥は、特殊日本的な独占体としての姿態をととのえた。三菱は1893年に「三菱合資会社」へと改組され、長崎造船所の拡張と神戸、下関造船所の新設、麒麟麦酒の設立など事業を広げた。そして1917年に三菱造船三菱製紙1918年に三菱商事三菱鉱業1919年に三菱銀行1920年に三菱内燃機製造、1921年に三菱電機と次々に事業を拡大していった。

 

 

4経済恐慌が連鎖した1920年代に入ると、産業の合理化による合併などにより資本の集中が進み、また日本の産業構造の重化学工業化にともない、既成財閥とは異なるタイプの新興財閥が台頭し、朝鮮・満州への投資を活発におこなうようになった。

 

 

5)敗戦後、「財閥」が日本軍国主義の基盤になっていたという理由で、連合国軍総司令部(GHQ)によって解体が指令された。それらの政策によって三菱本社、三菱商事は解散、三菱重工業三菱化成は分割に追い込まれた。三菱の元社長である岩崎小弥太は「国民としてなすべき当然の義務に全力を尽くしたのであって、顧みて恥ずべき何ものもない」と反駁したが、時代の流れに抗う事は出来なかった。なお、解体前の三菱財閥の総資産は、現在の価値に換算して120兆円と推定されている。やがて東西「冷戦」にともなうGHQの占領政策の転換によって、財閥解体に示された経済民主化政策は後退した。
 

 

 

 

 

 

設問

 

A:明治初期の有力資本の形成に関して、その原因について、上記の資料を参考にして2行以内で簡潔に説明せよ。

 

 

 

B:昭和戦前期までにおける、財閥の発達の原因と過程について、資料(3)・(4)・(5)の傍線部分を参考にして3行以内で説明せよ。

 

 

 

C:財閥は1940年代の後半にどのようにして解体されたか。具体的にその結果も含めて3行以内で説明せよ。

 

 

2008-11-20

東大日本史近世編

http://minna.cert.yahoo.co.jp/ccbqk/228737

近世編が出来ましたので投稿しておきます。

プロフィール

【DR.TEPO】
神奈川県在住の予備校講師。専門は日本中世史・宗教史。予備校で日本史を教えつつ,大学入試問題を解き,史学との接点を考えて本質的な受験指導と,歴史認識を平易に伝えたいと教授法を日々考察している。
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