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東大日本史セミナー秋の感謝祭08

第1問
古代の暦法と元号に関する次の文章を読んで下記の設問に答えなさい。

(1)『日本書紀』には欽明天皇十四年(553年)に百済に対し暦博士の来朝を要請したとの記事があり、また602年に百済から観勒が暦本や天文地理書などを携えて来日したとされる。

(2)文武天皇元(697)年8月から儀鳳暦が専用された。これ以降、唐で施行された暦法が相次いで輸入され施行されたが、宣明暦は貞観4(862)年より用いられ、そのまま江戸時代まで823年間も施行された。

(3)『続日本紀』によると、天皇の代始や災厄による改元の他、「武蔵国の秩父郡が和銅を献じたので、これを祝して慶雲五年を改めて和銅元(708)年とし、御代の年号を和銅と定める」と改元、養老八(724)年に白亀が出現したことを良い兆候とし「神亀」と改元、天平宝字九(765)年には戦乱の鎮圧によって「天平神護」に改元するなど、改元の理由が述べられている。

(4)昌泰4(901)年、干支が「辛酉」にあたったが、中国の書物『易緯』に「辛酉は革命となり、甲子も革命となる」、『詩緯』に「辛酉革命、甲子革命」とあるのを典拠として、三善清行は改元を主張したため、醍醐天皇により「延喜」改元が行われた。これ以降、朝廷では辛酉の年には諸博士に対して改元の是非をはかり、「甲子」の年にも検討が行われ、特に「辛酉」の年には14回も改元が行われた。


設問

A 日本古代における暦に関して上記の資料を参考に2行以内で述べよ。


B 元号の改変における古代国家の対応と方針について3行以内で述べよ。



第2問

次の文章は、中世における「悪党」の動向を記したものである。これらを読んで下記の設問に答えなさい。

(1)鎌倉幕府は1221年の承久の乱後、公式文書に「悪党」の語を用いはじめ、『貞水式目』第32条では「盗賊・悪党を所領内に隠し置く事」を禁ずるなど,悪党を犯罪として位置づけた。正嘉二(1258)年の幕府の追加法では,「国々悪党蜂起せしめ,夜討・強盗・山賊・海賊を企つる」として取り締まっている。

(2)高野山領である紀伊国荒川荘では,正応(1288~93)年間、新興武士の源為時らが荘園領主に反抗し悪党として追及され、一族を中心に隣荘の在地領主,近隣名手荘の悪党、金毘羅次郎義方と連帯し守護と交戦した。彼らは淀川流域に拠点をもつ商人や延暦寺僧侶など100人あまりで構成されていた。

(3)永仁三(1295)年、播磨国の東大寺領大部荘では、年貢を納めなかったため解任された荘官らが、武装した数百人の悪党、数千人の人夫を率いて荘園に侵入するという事件がおきた。彼らは、石つぶてを打ち、山から材木をころがしたという。彼らの中には、河内楠入道や安志氏がおり、瀬戸内海水運による年貢輸送を担う存在でもあった。

(4)『峯相記』には「当国(播磨国)ハ殊ニ悪党蜂起ノ聞へ候、…国中ノ上下過半、彼等二同意スル間、(中略)ハタシテ元弘ノ重事出来ル」と記されており、播磨は悪党の支配する領域で、鎮圧がままならないという状況であった。
(注)「元弘ノ重事」とは護良親王を奉じた赤松円心の挙兵などのことである。


設問
A 「悪党」に対する鎌倉幕府の対応について2行以内で述べよ。


B 上記の資料に見られる「悪党」像を参考にして、鎌倉幕府滅亡から南北朝内乱期の地域勢力のあり方に関して4行以内で述べよ。





第3問

次の文章は、江戸時代における海上交通と農業の動向について述べたものである。これらを読んで下記の設問に答えなさい。

(1)寛文十二(1672)年、河村瑞賢によって、蝦夷地と大坂を結ぶ西回り航路が開拓された。幕府が出羽国の直轄領からの年貢米の輸送を依頼したのが原因であった。

(2)北前船の所属する港は小浜・敦賀・三国・安宅・七尾などであった。北陸・東北からの木材や穀物類、蝦夷地の毛皮、魚介類、昆布、〆粕などは上方に運ばれる「登り荷」であった。一方、上方からは塩・砂糖・綿・反物・畳表などの雑貨が北陸・東北・蝦夷地に運ばれたが、これを「下り荷」とよんでいる。

(3)蝦夷地の塩沼地にみられる「ヤチサンゴ」という植物が、瀬戸内海の新居浜や小豆島の塩田にも分布している。船の揺れを防ぐため積み込んだ土に含まれた種子が花開いたものだと考えられている。

(4)宝暦年間(1751~63)、河内国などの綿布生産が工場制手工業に切り換わり大量生産が行われた。またこの頃、菜種・藍などの商品作物の栽培に用いられていた下総国・安房国の干鰯が値上がりしている。


設問

17世紀後半から18世紀にかけての日本国内の生産・流通において海上交通の果たした役割を、日本海流通とその集積地を中心に4行以内で説明しなさい。








解答:第1問

Aヤマト王権は百済から暦を導入し、後に唐から直接暦を輸入し施行
したが、遣唐使廃止以後も王権の統治を示すものとして存続させた。
B元号は王権を示すものとして制定され、天皇の代始、天変地異、吉
凶や政治混乱後などの統治の節目に改められた。遣唐使廃止以後も
辛酉、甲子における改元が恒例化するなど中国的観念は残った。

★輸入の経路と王権の統治を示す(5)
★王権の権威を示す(5)
★改元の理由・辛酉など革命説の改元(5)
★平安期にも中国的観念の残存(5)
☆政変や貨幣の説明には加点しない。


第2問
A承久の乱後、荘園領主の支配に抵抗する悪党を、鎌倉幕府は強盗
などの犯罪と同一視して厳しく取り締まったが根絶できなかった。 

B悪党は血縁の武士だけではなく商人や僧侶も含む地縁的勢力で、
荘園領主や鎌倉幕府に抵抗し、赤松円心らのように後醍醐天皇の
倒幕に加わった。南北朝の内乱期の地方混乱において血縁的にも
地縁的にも連携して地域利権を守る行動をとった。

★支配への抵抗・幕府の取り締まり・根絶できない(5)
★鎌倉幕府の倒幕に加わる・後醍醐天皇に従う(3)
★武士だけで構成されない(2)
★混乱期にも連帯して地域利権を守る(5)
☆式目の説明には加点しない。


第3問
17 世紀に西回り航路が開かれ、生産地と市場間の流通が促進された。
北前船は日本海側の物資を北陸地方の港湾に寄港して瀬戸内海経由
で近畿地方に運んだが、主に蝦夷の〆粕などを商品作物の生産地に
送り、木綿や藍の大量生産のための金肥の需要に応じた。

★生産地と消費地(市場)を結ぶ(5)
★北陸から瀬戸内海・近畿への 航路(5)
★商品作物・金肥の需要(5)
☆長崎貿易と俵物・蝦夷についての松前藩の動きは全く加点しない。


 

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プロフィール

【DR.TEPO】
神奈川県在住の予備校講師。専門は日本中世史・宗教史。予備校で日本史を教えつつ,大学入試問題を解き,史学との接点を考えて本質的な受験指導と,歴史認識を平易に伝えたいと教授法を日々考察している。
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