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東大日本史09編・その2

第一問 

 

次の都城の地図と資料を参考にして各設問に答えなさい。

(地図省略)

(1)平城京は、中国の辺境に近い唐の長安を模倣して作られたというのが一般的な定説であったが、藤原京との密接な関係から現在は関連が疑われており、中原にある洛陽などをモデルとした日本独自の発展形態ではないかと考えられている。
 

2)平城京の東西の市は市司によって管轄されていたが、肆(いちくら)と呼ばれる常設店も多く存在し、絹肆や布肆などがみえ、それぞれ専門店であったと考えられる。
 

3)律令官人は、「季録」などが主要な給料であるが、それらはアシギヌ、綿、布といった現物を政府から支給されていたが、和同開珎が鋳造されると収入形態も変化した。
 

4)平城京遺跡の南六条付近に「上総」、九条付近には「備前」「武蔵」、七条には「伊豆」という地方国名に由来する地名が周辺に残っている。

 

5)平城京は大河川から離れているため、大量輸送できる大きな船が使えず、物資を効率的に運ぶことが困難であり、人口10万人を抱えて、常に水不足であった。
 

設問

 

A:上の資料を参考にして、平城京の周囲に城壁が構築されなかった理由を2行以内で説明せよ。

 

 

 

B:上の資料を参考にして、平城京における流通の特色について、律令税制と関連させながら4行以内で説明せよ。

 

 

 

C:平城京が長岡京に移転されるに至った理由を2行以内で説明せよ。

 

 

 

第二問 

 

日本中世には「海賊衆」・「警固衆」など、地域権力に付属して海上業務に従事した集団が存在した。それらに関する次の文章を読んで各設問に答えなさい。

 

1室町幕府は海賊の被害を防御する目的で、海辺の守護らに警固を命じた。備後国守護山名氏は、領国内の因島に根拠を置いた村上氏、また豊後国の守護大友氏は国東半島の海辺の土豪に、貿易船などの海上警備を命じている。
 

2)安芸国守護武田氏は海上の権益について、明応41495)年、「警固衆」の白井氏に「安芸国仁保島海上諸公事」として安堵し、彼らと主従関係を結んだ。
 

3戦国大名の毛利氏は天文10年代(154150)から安芸国佐東郡に水軍を動員するための給地である「警固料」「船方給」を設定して自己の権力と直結した水軍を育成し、周防国大島郡の屋代島に水軍基地を増設し、大友・大内水軍に対抗した。
 

4)イエズス会士フロイスは、天正14(1586)年に堺から豊後国まで航海した途中、
「…その島には日本最大の海賊が住んでおり、そこに大きい城を構え、多数の部下や領地や船舶を有し、それらの船は絶えず獲物を襲っていた。この海賊は能島殿といい、強大な勢力を有していたので、他国の沿岸や海辺の人々は、彼によって破壊されることを恐れるあまり、毎年、貢物を献上していた」と記録している。
(フロイス『日本史』)※「能島殿」=村上水軍惣領・村上武吉のこと。

 

5)相模国小田原の後北条氏は永禄年間(155870)に、紀伊国の海賊衆の梶原氏を招き水軍を編成し、天正年間(157392)になると、梶原氏は乗組衆などを仕立てるための土地を後北条氏から給与されている。
 

6)天正161588)年、豊臣秀吉の海賊禁止令によって「海賊衆」の利権が否定され、豊臣政権による海上支配、統制が進んだ。

 

7)天正18(1590)年、豊臣秀吉は瀬戸内海の塩飽島で1250石の領有を「船方衆」に認め、後北条氏討伐に際し、兵糧米を大坂から小田原に運ばせている。

 

(8)豊臣秀吉は、文禄元(1592)年に文禄の役(=壬辰倭乱)、慶長2(1597)年に慶長の役(=丁酉再乱)をおこした。村上水軍の来島通総は、鳴梁の海戦で朝鮮水軍の李舜臣軍によって討たれている。
 

 

 

 

 

設問

 

A:室町政権による「海賊衆」の編成とその理由について2行以内で説明しなさい。

 

 

 

B:戦国時代の「海賊衆」について、上記の資料を参考にして2行以内で説明しなさい。

 

 

 

C:豊臣秀吉の「海賊禁止令」によって「海賊衆」はどのように再編成され、その後どのように活動したかを、上記の資料を参考にして4行以内で説明せよ。

 

 

 

 

第三問

 

江戸初期から中期社会に関する文章と史料を読んで、各設問に解答しなさい。

 

13代将軍徳川家光のあとを継いだのが子の家綱であるが、わずか10歳であった。この幕政が不安定な時期に、1651年の由井正雪の乱(慶安の変)がおこった。これは改易された大名の家臣たちが牢人となり、幕藩体制に不満を示したものである。

 

2)4代将軍徳川家綱の政策は、戦国時代につちかわれた武士社会における常識、つまり「戦国遺風」の排除を目標とし、「傾奇者(かぶきもの)」の旗本奴らは幕府に処罰された。

 

3)(史料)

 口上の覚
殉死は古より不義無益の事なりといましめおくといえども、仰せ出だされこれ無きゆえ、近年追腹の者あまりにこれあり。向後、左様の存念、これあるべき者には、常々その主人より殉死つかまつらざる様にかたく申し含むべし。もし以来これあるにおいては、亡主不覚悟越度たるべし。跡目の息も抑留せしめざる儀、不届思し召さるべきものなり。

(『徳川禁令考』)


4)寛文4(1664)年5月、米沢藩30万石の当主・上杉綱勝が27歳で病死した。

彼には跡継がいなかったため、急遽、綱勝の妹・富子と高家肝煎:吉良義央との間に生まれた吉良景倫を養子とする家督相続が願い出された。幕府は30万石のうち半分の15万石の相続を認め、上杉家は断絶をまぬがれ、景倫は上杉綱憲となった。
 

5)幕府の政策が浸透し各地にも好学の藩主が現れ、彼らは学者を自藩に招き、藩士対象の藩学を設立した。「姫路宰相」と言われた池田光政は岡山31万石の藩主であり、50年間、藩政を指導した。彼は「上様(将軍)は日本国中の人民を天より預かりなされ候。国主(藩主)は一国の人民を上様より預かりたてまつる。家老と士とはその君を助けてその民を安くせんことをはかる者なり」と説き、家臣に対して、主君に対する「乱世の忠」ではなく、民百姓の安全を守る「無事の忠」へ態度を変えるべきであると説いた。光政が設立した藩校や、郷学は著名である。

 

65代将軍徳川綱吉は「生まれながらの将軍」ではなかったために、極端なまでに家綱の政治方針の継承・推進を行った。「武家諸法度」「天和令」(1683年)では、「文武忠孝を励し礼儀を正すべきのこと」と示し、武道よりも忠孝が大切であると明示した。

 

 

 

 

 

設問

 

A:江戸時代初期の「戦国遺風」について、資料を参照しながら具体例をあげて2行以内で説明しなさい。

 

 

 

B:こうした政治体制に対応した大名の事績に関して、資料を参考にして3行以内で具体的に説明しなさい。

 

 

 

C:この時期に奨励された学問を一つ指摘し、上記の資料を参考にして当時の武士の価値観の変化について2行以内で説明せよ。

 

 

 

第四問

 

財閥史に関連する次の文章を読み、下記の設問に答えなさい。

 

1)土佐藩は坂本龍馬が暗殺されたことで解散した海援隊の後身である九十九商会の監督を1870年に岩崎弥太郎に任せたが、廃藩置県後に彼の個人事業となり、1873に「三菱商会」と改称し事業を展開した。また西南戦争で政府が支払った戦費は4,150万円といわれるが、そのうち1,500万円が三菱の利益であった。

 

 

2)中核となる「三菱社」は、1881年に買収した高島炭鉱と、1887年の長崎造船所の払下と、1885年に第百十九国立銀行の買収による銀行業務への本格展開をし、1885年に共同運輸と郵便汽船三菱会社の対等合併で「日本郵船会社」を設立、そして1887年に東京倉庫(後の三菱倉庫)も設立した。
 

 

31900年代から1920年代初めにかけて、三井・三菱・住友などの財閥は、特殊日本的な独占体としての姿態をととのえた。三菱は1893年に「三菱合資会社」へと改組され、長崎造船所の拡張と神戸、下関造船所の新設、麒麟麦酒の設立など事業を広げた。そして1917年に三菱造船三菱製紙1918年に三菱商事三菱鉱業1919年に三菱銀行1920年に三菱内燃機製造、1921年に三菱電機と次々に事業を拡大していった。

 

 

4経済恐慌が連鎖した1920年代に入ると、産業の合理化による合併などにより資本の集中が進み、また日本の産業構造の重化学工業化にともない、既成財閥とは異なるタイプの新興財閥が台頭し、朝鮮・満州への投資を活発におこなうようになった。

 

 

5)敗戦後、「財閥」が日本軍国主義の基盤になっていたという理由で、連合国軍総司令部(GHQ)によって解体が指令された。それらの政策によって三菱本社、三菱商事は解散、三菱重工業三菱化成は分割に追い込まれた。三菱の元社長である岩崎小弥太は「国民としてなすべき当然の義務に全力を尽くしたのであって、顧みて恥ずべき何ものもない」と反駁したが、時代の流れに抗う事は出来なかった。なお、解体前の三菱財閥の総資産は、現在の価値に換算して120兆円と推定されている。やがて東西「冷戦」にともなうGHQの占領政策の転換によって、財閥解体に示された経済民主化政策は後退した。
 

 

 

 

 

 

設問

 

A:明治初期の有力資本の形成に関して、その原因について、上記の資料を参考にして2行以内で簡潔に説明せよ。

 

 

 

B:昭和戦前期までにおける、財閥の発達の原因と過程について、資料(3)・(4)・(5)の傍線部分を参考にして3行以内で説明せよ。

 

 

 

C:財閥は1940年代の後半にどのようにして解体されたか。具体的にその結果も含めて3行以内で説明せよ。

 

 

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プロフィール

【DR.TEPO】
神奈川県在住の予備校講師。専門は日本中世史・宗教史。予備校で日本史を教えつつ,大学入試問題を解き,史学との接点を考えて本質的な受験指導と,歴史認識を平易に伝えたいと教授法を日々考察している。
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