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秋の東大セミナー問題

1


次の資料を参考にして下記の問いに答えなさい。

 

1)弘仁六(816)年、嵯峨天皇は主に平安京内の治安維持にあたらせるために、左衛門府の尉である興世書主を宣旨で「検非違使」に任命した。

 

2)検非違使の役所は次第に整備され、長官である「別当」が設置された承和元(834)年のころに完成した。別当は参議・中納言で衛門督(えもんのかみ)を帯びる者が任命されその命令書である別当宣は勅命に準ずる権威を持った。

 

3)検非違使庁の実務を担う職員には、律令に精通した坂上氏・中原氏から主に任用され、また治安維持のために武士も任命された。平安末期になると別当の私宅に検非違使庁が置かれ、そこで庁務を執った。

 

4)検非違使は火災時の消防活動にも従事し、別当が蔵人頭を通じて天皇に報告する「焼亡の奏」という儀式が形成されていった。

 

5)凶悪犯の場合、刑期がすぎても検非違使庁は犯人を釈放せず、下部組織である「放免」と呼んで業務を分担した。また検非違使は市司や、賀茂川の洪水を防ぐための治水を行う「防鴨河使(ぼうかし)」などの職員を兼任する慣例があった。

 

6)南北朝期、北畠親房の『職原抄』によると「朝廷で此の職を設置して以来、衛府の仕事である追捕や…京職の行う訴訟など、併せて検非違使庁が行うようになった」と記している。

 

 

設問

 

A 平安初期、朝廷は律令に記載のない官職を直接任命しているが政治的にどういう意味を持つと考えられるか。2行以内で説明しなさい。

 

 

 

B 「検非違使庁」が設置されたことによって、律令制度によって設置されていた機関や行政にどのような影響が与えられたと考えられるか。4行以内で説明しなさい。

 




 

2


次の資料を参考にして下記の設問に解答しなさい。

 

鎌倉幕府の訴訟手続を解説した『沙汰未練書』には、「御家人とは、往昔以来、開発領主として、武家御下文を賜る人の事なり」と定義されていた。鎌倉幕府の執権であった北条泰時らが制定した『関東御成敗式目』には以下の通り、御家人に関する諸規定が見られる。

 

11条「夫の罪によって妻の財産が没収されるかどうかの判断について」

謀反・殺害ならびに山賊、海賊、夜討ち、強盗などの重罪の場合は夫の罪であっても妻の領地は没収される。しかし、夫が口論によって偶然に相手を傷つけたり、殺害してしまったような場合は妻の領地は没収されない。

 

10条「殺害や傷害などの罪科のこと」

父子間の争いであっても、酔った勢いでのけんかであっても、相手を殺してしまったら、それは殺人罪である。(略)財産は没収される。父が罪を犯した場合でも、子が無関係であるなら、子は無罪とする。傷害罪の時も同様である。子や孫、あるいは先祖の仇と言って、人を殺害した場合は、犯人の父や祖父がそのことを知らなくても同罪とする。

 

17条:「父子が立場を変えて同じ合戦に参加したときの処分について」

御家人の場合、父子が朝廷側、幕府側と分かれて戦ったとき、幕府側にいて戦功のあった者が父であれ子であれ恩賞が与えられる。反対に朝廷側であったときには父であれ子であれ罰せられる。西国の武士の場合、父子いずれかが朝廷側であった場合は互いに同意した者として父子共に罰せられる。しかし、父子が遠く離れていて互いに連絡がつかなかったような場合は、朝廷側についた者だけを罰する。

 

25条:「御家人の婿となった公家は武士としての働きを行うこと」

公家と言えども御家人としての働きを行うこと。父親が存命中の代行は許されていても、父親死後はその者が働かなくてはならないからである。それでも公家としての実家の権威を利用して怠る場合は所領を相続することを辞退すること。また武家の娘が幕府内で働くときに公家のしきたりを入れてはならず、そのような者は所領を治めてはならない。

 

設問

A 上記の資料から鎌倉幕府の御家人の家族と財産に関する規定の特徴について3行以内で説明せよ。

 

 

B 上記の資料から鎌倉幕府と京都政権(朝廷および院政)との関係について、13世紀の戦乱や土地支配の特徴にも触れながら4行以内で説明しなさい。

 

 

 

3

次の資料を読んで各設問に解答せよ。

 

江戸幕府の第8代将軍であった徳川吉宗は、清国商人を通じて交趾広南(現在のベトナム)に象を注文した。発注から2年後、享保13(1728) 6月、象を載せた清国船が長崎に来着した。ベトナム産のオスとメスの2頭の象は、船上から波止場へと厳重に誘導され、「唐人屋敷」で飼育されていたが、メスの象はまもなく死んだ。翌年3月、生き残ったオスの象は江戸へと運ばれた。九州と本州の間の関門海峡は船で渡り、途中、京都ではが霊元上皇と中御門天皇に拝謁している。この際、象が無位無官であるため資格がないという問題が起こり、急遽「広南従四位白象」との官位を与え宮中に参内させた。拝謁した象は前足を折って頭を下げる仕草をし、初めて象を見た天皇は
 

「時しあれば 人の国なるけだものも けふ九重に みるがうれしさ」と感銘を和歌に表している。
 

象が通る地域には、物音を立ててはいけない、象の通り道にある小石は取り除いておかねばならない、決められた量の餌を用意しておかねばならない、決められた構造の休憩小屋を作っておかねばならない等、細かく行政命令が出されていた。大名や民衆は、自分たちの土地で、将軍の象に変事が起こらないように、地域が連帯して準備にとりかかった。こうして、橋の掛からない大河川を筏で渡り、箱根の関所を越えて、長崎を出てから約2ヶ月後の5月25日、象と一行が江戸城の吉宗の元にたどり着いたのである。象が1日に食べるエサは、米8升、饅頭100個、みかん100個、藁120㎏、笹の葉90㎏、草120㎏、芭蕉の葉2本であったという。
 

 

設問

 

A 上記の資料から、江戸時代18世紀初期日本の交通の特徴について3行以内で説明せよ。

 

 

 

B 上記の資料から、18世紀初期の日本における幕藩体制と身分制社会に関して3行以内で説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4

次の資料を読んで各設問に解答せよ。

 

明治211888)年2月、黒田清隆内閣が組閣され、大隈重信が外務大臣に就任した。彼は「外国人裁判官の過半数任用」に関する事項を改善した改正案を各国に提示して条約改正交渉に着手した。大隈は条約改正に好意的な国から個別交渉を開始し、その結果、アメリカ・ドイツ・ロシアとの間で改正はおおむね合意に達していた。しかし、改正案では「外国人裁判官を大審院に限り任用」することを認めていたことが、イギリスの「ロンドン・タイムス」に掲載されると、翻訳されて日本の民権運動家に配られ厳しく批判されたが、外国人裁判官任用は、『大日本帝国憲法』に明らかに抵触していた

 

『大日本帝国憲法』

19条:日本臣民は法律命令の定むる所の資格に応じ均く文武官に任ぜられ及其の他の公務に就くことを得。

24条:日本臣民は法律の定めたる裁判官の裁判を受くるの権を奪はるることなし。

58条:裁判官は法律に定めたる資格を具うる者を以て之を任ず。

 

政府内でも、法制局長官の井上毅、逓信大臣の後藤象二郎らが「大隈改正案」批判を展開したが、首相の黒田清隆は大隈を支持し、大隈も必死の決意で条約改正に臨んでいたため、閣内不一致の政情混乱を招いた。さらに自由民権派や国粋主義者からの批判も根強く、18891018日、玄洋社の来島恒喜が、霞ヶ関の外務省前で大隈に爆弾を投げつけたため、大隈は片足を失ってしまった。負傷した大隈は黒田清隆首相と共に辞職し、条約改正交渉は暗礁に乗り上げた。

 

 

 

 

設問

 

A 明治政府の条約改正交渉で問題とされた不平等条項を具体的に2行以内で説明せよ。

 

 

B 上記の資料を参考にして大隈重信の条約改正の方針を2行以内で説明せよ。

 

 

C 上記の資料の傍線部分を参考にして、大隈改正案がなぜ批判の対象になったのかを3行以内で説明せよ。

 

 

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【DR.TEPO】
神奈川県在住の予備校講師。専門は日本中世史・宗教史。予備校で日本史を教えつつ,大学入試問題を解き,史学との接点を考えて本質的な受験指導と,歴史認識を平易に伝えたいと教授法を日々考察している。
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